お世話になった方々へ


私、松井達人は9月29日をもちまして株式会社松栄シルクの代表取締役を退任いたしました。昭和62年10月に会社を設立、以来39年の長きに渡りご支援いただき本当にありがとうございました。皆様のお力添えがあったればこその今日と思っております。9月30日からは新オーナーのもと、社員一同これまでどおり営業を続けて参ります。引き続き変わらぬご支援を賜りますようよろしくお願いいたします。

思えば長く険しい道のりでした。昭和50年の夏、16歳で上京、初の就職先でいきなり騙され借金だけが残る、それでも気を取り直し必死で働き借金を返し、貯金もできたことから会社を辞めアパートを借りました。この時17歳、いったん郡上に帰り両親に報告、再び東京に戻り仕事探しの始めたのです。ところが中卒の私にとって大きな会社への就職は無いに等しく、毎日のように買い山積みにされていくアルバイトニュースを見ては絶望感を覚える日々が続いていました。

昭和51年3月、絶望の淵に居た私を救い上げ育ててくれたのは葛飾区堀切で町工場を営む社長夫妻でした。その工場には7名の郡上出身者がいて、工場内で郡上弁が飛び交う、ここは本当に東京なのかと思うほど、小さな郡上の存在に感動しました。こんなことがあっていいのか、私は嬉しくて母に電話、郡上の人がたくさんいる会社に就職した、皆さんとてもいい人たちだ、ここなら頑張れる、安心してくれと。

この会社に就職して12年目、母が亡くなりました。いつかは郡上に帰り親の面倒をみようと思っていた私にとって、母の死は東京永住へと気持ちを切り替える要因となってしまったのです。昭和62年9月、11年間お世話になった会社を辞め、自分で印刷工場を始めました。独立開業です。翌月(10月)有限会社松栄シルクを設立、法人が何であるかさえ知らなかった私が、会社の社長となってしまったのです。上京して12年目、28歳の秋でした。

小資本で始めた会社でしたが、想像していた以上に大きな会社へと成長しました。ただ、その一方で私の体は傷み始めていたのです。15年前、何かあっては大変なことになると人間ドック受診を始め、13年前には好きだったお酒も止めました。それ以来一滴も飲んでいません。社長として会社を守るためには健康管理が最も重要であることを自覚し、忠実に守って来たのです。そんなある日、脳ドックにて頸部動脈にプラークが発見されました。プラークとは血管の中にあるゴミのようなもので、「プラークが飛ぶ」と大変なことになると・・・。プラークが脳に行けば脳梗塞、心臓に行けば心筋梗塞、顔に行けば失明すると言われショックを受けました。万一症状が出始めたら6時間以内に処置を始めないと重大な結果をもたらす、医師からは極力一人にならないようにと言われ、このような爆弾を抱えた状態で経営は続けられない、万一の事があれば多くの社員が路頭に迷う、その思いは日に日に強くなり不安は増すばかりでした。

思い悩んだ私は取引金融機関に対し、どなたか経営を引き継いでくれる方はいないだろうかと相談、すると数日後日本M&Aセンターを紹介され、すぐに契約を結びました。そして始まったお相手探し、急いでくれとせっつく私に対し、この会社の人たちは昼夜を問わず走り回り、土日も関係なく働いてくれました。働き方改革など何処吹く風、ありがたいと思いました。

そして今般、私の会社を引き受けましょうと言って下さる方が現われたのです。Made in Japanにこだわりを持った製造業として30年間君臨して来られた会社で、社員の雇用を守る事を条件にすべてを委ねることにしました。

今年に入り悩み、苦しみ、眠れない日が続いていたのはこの事だったのです。

「東京50年物語」と題し歌を配信し、ラジオ番組まで持ってしまう、何を考えているのだろう、呆れる家族、でもこれが私なのです。上京50年、いろんなことがありました。辛い事もあった、泣きたい日もあった、でもそれ以上に楽しいことがあった。16歳のあの日、東京に行こうと決めたことは間違っていなかった、これで良かったのだと思っています。長きに渡り今日までやってこられたのは、東京の人たちの支えがあったればこそ、感謝でしかありません。本当にありがとうございました。

私もそろそろ68歳になります。働き詰めに働いてきたと言っても過言ではなく、正直言って疲れました。休みたいとか、終わりにしたいとか、今までになく弱気な言葉が出るようになり、取り巻く人たちは大丈夫かと気にしてくれています。嬉しいですね。こんな私でも気にかけてくれる、そんな時に思うのが東京に来て良かったということです。東京の人は皆優しい、でも、東京50年物語は幕を下ろす時が来たように思います。こんなことを言うとお叱りを受けるかも知れませんが、それだけ私の体は傷んでいるということです。

今日夕方、全社員にM&Aの報告をしました。皆びっくりしていました。当然ですよね、でもいつかきっと理解してくれる日が来る、これで良かったと思ってくれる日が必ず来る、そう信じよう、報告を終え会社を出るとき、娘が「40年間ご苦労様でした」と言って手紙を渡してくれました。泣きそうになるのをグッとこらえ会社を離れました。

2026年9月29日